廣瀬 瑞コーチ

廣瀬 瑞

HIROSE MIZUKI

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プロフィール

ニックネーム 学生時代の仲間からはミズキと呼ばれます
生年月日 1977/3/15
出身地 東京都
身長 172cm
血液型 O型
利き足 左足
好きな食べ物 ペペロンチーノ
好きなアーティスト THE BLUE HEARTS、秦 基博
好きな色 青、緑
休日の過ごし方 息子と野球

パーソナルチャート

所属・経歴・ライセンス

東京都立上野高校-日本大学卒
日本サッカー協会公認フットサルB級指導者ライセンス保持
日本サッカー協会公認C級指導者ライセンス保持
高等学校教諭一種免許(保健体育)
中学校教諭一種免許(保健体育)
第一級陸上特殊無線技士免許

生徒・保護者へのコメント

COMMENT

<フットサルというスポーツについて>
フットサルに出会って約20年、小学生に指導を始めて5年が経ちますが、私の中でフットサルというスポーツの認識が、年々アップデートされていきます。現時点での認識は、足でボールを扱うという点ではサッカーと共通し、少人数のボールスポーツという点では、バスケットボールやハンドボールと共通します。それぞれの「良いとこ取り」のスポーツ。それがフットサルだと思っています。

少人数でプレーするため、ボールに触れる機会はもちろん、次にボールを受ける役割になる機会=「当事者になる機会」も多く、「自分のためのプレー」と「仲間のためのプレー」を求められる状況が目まぐるしく入れ替わっていきます。そのような、スピーディーな展開の中で、技術面や戦術面の向上のほかに、子どもの自主性と協調性も育まれると思います。詳しくはこちらもご覧ください。

<パーソナルチャートについて>
右上のパーソナルチャートを説明することで、私がどのような人間か、簡単にですが、お分かりいただけるかと思います。
【指導年数】は高校生、大学生の頃に自分の出身街クラブのサッカー少年たちを教えていた頃も含めれば20年以上になります。幼児から大学生、社会人まで様々なカテゴリーの選手に、気づけば人生の半分はサッカーやフットサルを指導しています。特に大学卒業後に競技でフットサルに出会ってからは、フットボールの仕組みをより理解することができ、サッカーよりも更にロジカルなスポーツであるフットサルのプレーの意味や状況を【言語化】することが習慣になりました。ちなみに、20代はマスコミで働いていたため、言葉には敏感な方だと思います。
【年の差】オーシャンズスクールの中ではダントツの年長コーチですので、当然、生徒たちとの【年の差】は大きいです。フレッシュさは皆無ですが(笑)、ベテランの味があります。スポーツをしている息子の父親でもありますので、保護者の皆様の気持ちと共感することもよくあります。
【社会人基礎力】20代はマスコミ、30代は電気通信の分野の一般企業で働いていたため、スポーツで養われる能力が、社会のどのようなシーンで活きるのかという観点でも、子どもたちに関わることができます。詳しくはこちらもご覧ください。
【トランジション】とは、フットサルやサッカーなどの用語で攻守の切り替えのことですが、自分では割と気持ちの切り替えは早いほうだと思います。気持ちは常に前向きに。チャレンジすることが特に大切である育成年代の指導でも、より意識していることでもあります。

フットボールストーリー

STORY
【サッカー】
小学生:サッカーを始めたのは小学4年生。比較的遅いスタートでした。東京の下町で育ち、家から自転車で10分ほどのグランドで練習する街クラブに入りましたが、サッカーをめちゃくちゃ好きだったわけではなく、同じマンションに住む仲の良い友達が次々とサッカーを始めたため、遊び友達がいなくなり、なんとなく自分も入団しました。時代はキャプテン翼全盛期、Jリーグはまだありません。フットサルはフの字も無い時代でした。柔道をやっていたので、受け身ができるのが良いと言われて試合ではGKでした。

中学生:そのチームはジュニアユースまであったので、そのままジュニアユースに進み、自分の中の転機になったのは中学1年生の冬ぐらいでした。当時は全く意識してませんでしたが、3月生まれということで、同学年の中で身体的な成長が遅かったのですが、中学1年の時に一年間で15センチ身長が伸び、ロングキックの飛距離が一気に長くなり自己肯定感が高くなりました。また、短距離走は平均的でしたが、苦しい練習でも一生懸命やるタイプだったため、マラソン大会で学年一番になり、自分の中で何かが変わり始めました。今ならわかりますが、中学年代は心肺機能の発達が著しい時期なので、苦しい練習の効果が最大限発揮されました。

高校:ユース部門は無かったため、セレクションを経て三菱養和SCに入団しました。全国大会優勝を狙うレベルのチームで、3年生のプレーに圧倒されたり、内部昇格組の輪に積極的に入れなかったりと苦労しました。
結局大学まではサッカーを続けましたが、高校2年の時に発足したJリーグに入れるとは全く思えなかったので、就職して、趣味で週末のみサッカーをしていました。
【フットサル】
同じころ、実家の近くにできたフットサル場の個人参加フットサルで知り合った仲間と競技フットサルチームでプレーするようになってからフットサルにのめり込むようになりました。当時まだフットサルのコミュニティーは狭く、当時の日本最高峰リーグであった関東リーグの選手や指導者が周りにはたくさんいて、いろいろな人や機会からフットサルを学びました。大学時代の仲間が多く所属するチームで、一から上を目指そうと、働きながらフットサルに熱中していたのが20代。
仲間達と試行錯誤はしながらも、東京都フットサルリーグのオープンリーグから1部リーグまで比較的順調に昇格する過程で、上のカテゴリーになればなるほど「監督」の力が問われることに気付き指導に専念。また、当時は指導者に専念する人材も少なかった事情もあり、東京都選抜チームに関わる機会もいただけて全国大会優勝も経験しました。

オーシャンズスクールで働き始めてから、本格的に育成年代への指導をスタート。
四日市校、愛西校、桑名校、NAS大高校、みなと校、エリートプログラムを歴任しながら、スクール巡回のほか、愛知学院大学フットサル部、中京大中京高校サッカー部などへ定期的なフットサル指導を行なってきました。

保護者の声

VOICE

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