こんにちは!桑名校コーチの下畝地です!
成長曲線を描いた上での「今」とは?
「真っ白なキャンパスに絵を描ける人間になりなさい」仕事をスタートさせるタイミングで、この言葉をある人からかけられました。これを聞いた時に僕はこの言葉の意味を直感で理解できたと思います。要は “いつでも自分で踏み出せる人間でいなさい” ということかなって具合に。
それともう一つ。リアルに絵を描くことって「アート」や「芸術」ってことですよね。昔からずっと自分の中で考えていたことがあって、それは「なぜ、売れる絵があって、売れない絵もあるのか」ということです。あなたは一体何を考えているんだってことなんですが (笑)、自分の中では結構重要なことで不思議だったんですよね。
アートって自己を投影させる対象物だと思うんですが、それでも見る人の心を揺さぶる「何か」があるものは売れるんですよね。その何かをずっと探していたんですが、それはたぶん「感情」なんじゃないかなとちょっと前から思うようになりました。例えば何かを見て感じた “怒り” をそのまま芸術にぶつけたもの、”喜び” を芸術作品として際立たせたものなど。自分の中だけで完結するものはきっと趣味であって、自分の外に働きかけるメッセージ性あるものは仕事になる、だから感情のこもった芸術は売れるのだと自分を納得させました笑笑
そしてようやく本題なんですが、成長曲線を描いた上での「今」です。指導者の仕事って突き詰めると「今」ではなく、「子供たちの未来」を良くする仕事だと思うんです。未来をイメージしてからの逆算で日々のトレーニングがある。指導者をやりたいという欲は自分の中だけのもの。やはり、それを仕事としてリンクさせるには芸術と同様に相手に共感してもらえるようなことに昇華しないとですよね。意味の分からない、捉えようのない指導は仕事ではなくただの趣味で、自分の感情が正しいものなのかという仕事の評価は常に子供や保護者の皆さんから下されるものということを理解しないとですよね。
大人が目的を見失うことの怖さ
お父さんお母さんがお子さんに対して「サッカー/フットサルを通して人としての成長を求めているのか」という点はとても大切な観点です。
お子さんの試合を見ていて「もっと出来るんじゃない?」と感じることは十分に理解できます。ただ、そのもっとやってほしいの気持ちは誰の欲を満たすものでしょうか?大人がチームメイトに負けられないからと熱を入れることになってしまっては本末転倒です。結局は自分自身で楽しめる子達がずっと競技を続けます。
本来の目的見失っていませんか?子供はいつでも一生懸命に夢中になる可能性を秘めているのに、それを消滅させてしまうのが大人の存在になるなんて…何が正解かなんて分かりませんが、楽しめる子達を楽しませることが出来ないのはちょっと残念ですよね。
辞めたらそれで終わりです。成長曲線なんてものも消えて、子供たちも好奇心やワクワクを無くしてしまう。個人的には前向きに辞めるなんて選択肢はなくて、どっちが大切で何を取るのか次第なのかなって思います。一度始めたことをやめることは大きなことです。その理由に指導者をはじめとした大人の存在があがっては駄目だと強く思います。
子供の決断最終局面に指導者は不要
一番強いチームは指導者が要らないチームです。こういうチームは究極の話ですが、実際の話として選手主体のマネジメントを採用するチームは多くあると思います。ただ、自分は最初から選手たちに任せるのではなく、ある程度の段階を踏んで移行するべきなのかなと考えています。最終的に選手たちが監督やコーチの才能を超えていけるようになれば素晴らしいですね。
取り組もうとしているのか、いないのか。結局ここに尽きると思います。子供は本当に可能性が無限大です。一緒にレッスンをしているとよく感じます。子供たちの成長って本当に凄いなって。だからこそ、指導者が限界を決めては駄目でしょう。監督がプレーのあれこれを試合中に指示しすぎるのは、そうしたチーム作りしか出来なかったからです。もしくは目指したけど出来なかった。
子供たちの決断の瞬間にネガティブに指導者の存在がチラついたなら、指導者は負けです。例えその時は強いチームであっても将来的に考えると意味を見出しづらいし、子供たちへの関わり方について何かがズレていると思います。そこまでして子供たちの成長の “価値” よりも、チームの “勝ち” を優先したい人は大人の世界のフットボールへ飛び込むべきです。
子供を騙す指導に何の意味がありますか?子供たちが大人になった時に気持ち良い感情で再会できますか?