こんにちは!桑名校コーチの下畝地です!
「できない」はダメってことではない
「できる」「できない」って物差しで子供を評価することに、強い意味があると感じますか?
個人的にはそこに意味は感じなくて、むしろそんな小さな世界の話でできたら立派で、できなかったらダメだよねって印象を与えてしまうことに危機感を覚えます。
一番わかりやすい例は「勉強」でしょうか。自らの好奇心でどんどん深く学ぶことができればいいですが、大半の場合はそうではないと思います。それなのにテストというものを通して点数が全てで、常に高い点数を目指しなさいという雰囲気を苦しく感じてしまう子も中にはいることでしょう。
最悪なパターンはできないことを叱って、子供に「ダメだ」という印象を与えてしまうこと。その子が別に目指そうとしていない世界なのに、できないことを叱られて、劣等感を植え付けられる。けど、そうじゃないでしょう。無理に大人が矯正しようとしなくても子供は自分で進みたい方向を見つけて、動ける力を本来持っていると思いますよ。
言葉は受け取り側のもの
心の状態は見えないんです。ここが一番の問題です。
そして言葉は発した人のものではなく、”受け取り側” のものなんですね。「誰もいない森で木が倒れたら、音はするのか」という命題もあるように、結局はどう受け取ったのか、それ次第だと思うんですよね。
「もっと勉強頑張りなさい」「勉強できた方が将来役に立つ」「なんでもっといい点数取れないの?」大人の側はこうした発言を子供の将来を考えて上での善意が出発点だと認識しているはず。けど、受け取り側の子供は決してそうではないと思います。意味もわからず勝手に勉強しなければいけないという枠の中に入れられてできないから心を傷つけることになる。だったら勉強することの大切さを、本当の意味を説明して欲しいって感じているはず。
そして少年サッカーでも。体験に来ていただく中で時々保護者の方からなかなか壮絶な話 (主に言葉の暴力で子供が参ってしまったと) を聞きますが、なんでそうなっちゃうのかな?って思うことばかりです。教えるってことはコントロールすることとは違うはず。選手たち、子供達が主体的になれるためのサポートをするだけですよね。見えていることを指摘することがどれだけ簡単なことか。そしてどれだけ傷つけることかって話ですよね。
安心×舞台で何かを掴み取れる
子供が安心できること、これ教育の上で絶対条件ですよね。
そして舞台や環境、夢中になれる場所があれば好奇心を持ってどんどん突き進めるはずです。
個人的によく生きようと思ったら、絶対に人生どこかのタイミングで「頑張ること」「努力すること」を決意する必要性があると考えています。前に進もうとするその姿勢の中からしか生きた感情は感じ得ないのではないでしょうか。自分の決意をもって、達成できたことに自分という存在の価値を自身に納得させられると思うんです。
そしてスクールはそんなことを練習できる空間になっています。フットサルという題材を通して、やってみようと思ったことに果敢にチャレンジする。その結果を受けてまた新しい自分の可能性に気がつける。ただ、僕はその感覚をサッカー/フットサル好きな子達だけのものにしたくはありませんでした。だからクラス分けも細かく設定してみんなが安心して取り組める環境を作ろうと思ったし、小さなうちからそんな思考回路が作れたらいいなという思いで年中さん年長さん対象のクラスもどんどん増やしました。
できないことは別に悪くはない、けどアプローチ次第で好転することだってもちろんある。そういう世界があるんだということをもっと多くの人に知ってほしいなと思います。